みやこにありて思うこと

京都は自転車でまわるとおもしろい。 人家、古着屋、古い家、重要文化財、人家、人家、カフェ、寺社、銭湯、とさまざまな建物が混然とたち並んでいるのがよくわかり、気の向くままに足を止めることができるからだ。

絵に描いたような「むかしの日本」が残っているのはめでたいことだけれど、京都には大地震が久しく来ていないことが気がかりである。 山に囲まれ、いつ地震があってもおかしくない土地柄なのに何百年も大きな地震がないのが恐い、と地理に詳しい人は口をそろえる。 引き絞った弓のつるのように地震のエネルギーが着々と溜まっているのだという。

ならば、崩壊してからの都市デザインをどうするのかはやくはやく考えるべきなのだ。町屋など、ほぼ確実に消防法が再現を阻むだろうし、重要文化財保全技術は大丈夫なのか。設計書などはよそにも移してあるのか。なによりも、観光特区だなんだというのなら、京都が好きだと観光に来るよそさんが「なぜ」好きなのかを探っていかなくてはならないだろう。京都検定京野菜ソムリエは、その手段なのだろうか。 少なくとも、どこかの私学と組んで漫画図書館をつくろうというひまに、やるべきことはたくさんあるはずだ。 と思っていたら、識者を集めて地震にそなえて会議をやっていたらしい。ちんたらしていたらまにあわないと思う。

千年のみやこが崩壊したとき、京都市の価値が過去の遺産にあぐらをかいていたものなのか否かがわかる。 わかる前から懐疑的な書き方をしてしまうのは、任天堂(京都本社)がポケモンビルを作ろうとしたら「景観をぶち壊すので」と許可しなかったわりには、JR京都駅と京都タワーをよしとしてすましている姿勢が解せないから。

近畿に大地震が来たとき、自分がからくも生きのびることができたならば、京都市がどこに向かうかは興味深く見守ろうと思っている。
(2006/4/29)